青春徒然草 その1  温故知新 中学時代

 

青春徒然草 その1 中学時代

 

 和歌山紀南という地方で育ち、中学生時代は自閉症気味で肥満体、特に趣味や興味を持った事もなかったが、小学生の頃覚えたピンポン(和歌山特有のバスケットピンポン台が近所の岩上君の家にあった)だという軽い気持ちで卓球部に入部したものの内実は全国大会を目指す強豪校で、トレーニング(うさぎ跳び、腕立て、腹筋など)厳しく嫌になり、すぐ退部。トレーニングをしていた傍の部室で楽しそうな新聞部にすぐ鞍替えした。
 新聞部は学期毎にかべ新聞を発行、誰も読まない事に創意工夫注目の方法として廊下の床に張り出す事を提案した。校則とかルールの壁に阻まれる最初の経験だった。
 この頃の楽しい記憶は近所の伊藤君の誘いで渓谷「奇絶峡(きぜつきょう)」での遊泳だった。
 家の前が中学校区の境目の辺境地で小学校の40人クラスでもただ一人違う中学に進学で、幼馴染で隣で住む岩上自転車、木下時計店の息子同級生とも校区違いで無慈悲な別れを経験した事、中二の頃に兄彰伸の死を経験し親の悲しみの前に反抗期すら経験しなかったことなども含め、自己完結せざるを得ないことが、思春期の目覚めと共に、自閉症気味になった要因だったのだろうと今思い起こされる。
 自閉症気味の僕を救ったのは間違いなく伊藤君の遊びの誘いだった事、今覚えば理解できる。幼少の頃から、ウルトラマン仮面ライダーのヒーローを見て育ち、「宇宙戦艦ヤマト」「アルプスの少女ハイジ松本零士宮崎駿のアニメが同時刻に放映されるという贅沢な時だったかも知れない。
 古本屋の漫画レンタル屋や江戸川乱歩の怪人20面相、少年探偵団、五島勉ノストラダムスの大予言や「スターウォーズ」の公開などSF志向的なものや空想的なものに耽っていた時代でもあった。

 

 続く

高校時代 吹奏楽とバンド

大阪Fラン大学時代 軽音楽部

成人するという段階での選択

バブル突入と3社転職とキャリアップ

3社とも東京本社
本社勤務の固辞 東京で住むと言う選択肢は無かった。